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誰にとっての幸福か

改編された現代の街で出てくるおじいさんいるじゃないですか。幸せな人生を過ごしてきたからそろそろ大人しく(人生を)引退するかみたいなことを言う人。それを最初見たときは怖かったです。気味悪いというか。私がTOD2をプレイしたのは……えっといつだっけ……中学か高校のときだと思うのですが、そのときはそうやって神から与えられる幸福を、自分の死を穏やかに受け入れる人の姿というのが怖かった。いくら今までの人生が幸福に満ちていたからといって、「満足だから次の世代のためにもそろそろ死のう」という発想が当時の私には想像つきませんでした。しかもその幸福は神から無条件で無差別的に与えられたものであって自身が掴んだものではないじゃないですか。そんな幸福を喜ぶ人は本当にいるのかなって思っていました。
カイルたちも当時の私と同じような感覚で(?)、神から与えられる無差別の絶対的幸福を否定するわけですが、ダメな大人になった今としてはむしろそういう無条件に与えられる幸福を求める側になってしまいました。誰もが健康的に、穏やかな生活を送ることができる世界。いいなぁと思ってしまいます。エルレインの世界に関しては特に人々の思考や意思が奪われているわけでもなさそうですし(レジスタンス的な人々が登場しない辺り、そういう人たちは裏で処理されているのかもしれませんが)。
で、ここにそういう風に思う人間がいるということは多分こう思う層って一定数いると思うんですよね。あのおじいさんや、エルレインによって改編された現代に暮らす人々のような。
カイルたちのしたことってそういう層の幸せを奪っているんじゃないかなとちょっと思うんです。カイルたちは「自身の手で掴む幸福」が奪われていると考えてエルレインの世界を否定するわけですが、それは同時に「無条件で与えられる幸福」を奪うことでもあるんですよね。でも後者をとれば前者は奪われるわけで。「幸福の形は人によって違う」というのであれば後者だって無論ある人にとっては幸福なんですよ。
……こう書いているとカイルたちの選択の矛盾を指摘したいように見えるかもしれませんが、「絶対的な幸福などない」という意味では一貫していると思います。神に与えられる無条件の幸福……というか誰にとっても絶対的な幸福はどうやっても得られないんですね。あちらを立てればこちらが立たずというか。「神」や「幸福」のような曖昧なものを取り扱いながらも現実的な感じがあっていいですね。好きです。

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木と木陰

レイズでカイルが「ジューダスは好きだけどリオンさんは苦手、ジューダスは優しかった」って言ってるんですけど、いやまぁそりゃそうだろうなって感じですね。リオンからしたらカイルは能天気で図々しくて馴れ馴れしい奴が一人増えたなってぐらいだと思うんですよ。リオンからしたら他人ですし。それに対して、ジューダスがカイルに優しいのは自分の身内だから……というか「あいつらの子供だから」かなと思います。そして自分の仲間でもある。「一度死んだ男が手にするには大きすぎる幸せ」なんですよ。生前に見られなかった夢、選ばなかった道を、本来存在しない時間において見せてくれた。あいつらの子供であるカイルを守ることは元々の使命ではあって、だから面倒を見ていたのだろうけど、それ以上に自分にもう一つの居場所を与えてくれた存在でもあるんですよね。自分の居場所。私の脳内イメージでは木と木陰なんですけど、安らげる木陰をくれた木のことは慈しもうと思いますよねって話です。

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