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寄り添い寄り添われ

ロイドの居る人生 を書いていて思ったのですが、これってすごいことですよね。今までに自分が触れてきた作品の登場人物達って、自分の人生の中に確実に"居る"んですよ。なんだかとても幸せなことだなぁと思いました。
物語に触れるということはそこに登場する彼らの人生に寄り添うことでもあって、彼らと一緒に笑ったり泣いたりするわけじゃないですか。共感したり、時に希望をもらったりもする。そうやって同じ時間を刻んだ彼らは、私達の人生にも寄り添ってくれる存在になるんだなって思いました。
ちょっと凹んだ時なんかに彼らのことを思い出して「やっぱり私も頑張ってみよう」って思ったり、彼らの楽しい日々に思わず頬が緩んだりするんですよね。私達が彼らの人生に寄り添ったように、彼らも私達の人生に寄り添ってくれるのかもしれないなって思いました。
そう考えると、自分の人生は今までに出会った沢山のキャラクター達に彩られて、時に励まされもしながら進んでいるような感じがします。なんだかいいですね。自分の人生にいろんな人が居る。「自分の人生」だから、結局歩いて行くのは自分だし、自分だけだし、誰も同じ道を歩いてはくれないけど、でも今までに出会ったキャラクター達は確実に自分の道に立っていてくれるんだなって思います。歩いて行くのは自分一人だけど、その道に居るのは自分一人じゃない。急に自分の道が騒々しくなったような気もしますが、それはとても幸せなことなんだろうなって思いました。

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生産力のあるクールなオタク

度々口にしている気がするのですが、私は「生産力のあるクールなオタク」でありたいんですよね。「ありたい」というか「なりたい」というか(まだなれていないと思うので)。
そもそも私の言う「生産力のあるクールなオタク」ってなんやねんという話なのですが、こう……生産力のある……クールなオタクです……(説明になっていない)。
「生産力のある」は、まぁそのままですね。語ったり何か作品作ったりしている、ってことです。一方「クールな」は、上記の生産活動以外のことには寡黙、という感じでしょうか。「オタク」はオタクです。
要するにですね、淡々と粛々と生産活動をするオタクでいたいってことです。そのようなオタクのことを私は「生産力のあるクールなオタク」と称しています。
 
いや……なんかもうね……本当そうありたいんですよね……(?)
他のことを考えず、ただ推しを見つめ、推しについてだけ心を砕いていたいんですよね……。
正直なところ「周りに振り回されない」っていうのもちょっと入っているかもしれません。私は推しと対話し(自身の中の推しの解釈を突き詰めていく作業)、そしてその結果を自分なりにまとめたい(ここが生産活動にあたる)んですよ。その行為がしたい、というのが多分一番大きくて。だから「周り」に振り回されている場合ではない……というか……うるせー俺は推しとの対話に忙しいんじゃという感じですね(?)
そもそも、イデアは原作じゃないですか(イデア論の説明は気が向いたら追記にでも入れておきますがプラトンのあれです)。
だからそちらを向いているべきだし向いていたいんですよ。イデア以外は全て虚像のはずなんですよ。だから幾ら私が推しと対話しようとそれをまとめようと、それ自体がイデアには成り得ないんです。わかってるんです。それでもイデアの方を向いて、(イデアそのものは見えないけど)零れ落ちる光をかき集め、繋ぎ合わせて、イデア……になるべく近いもの…を、自分の手の中にも持ちたい。イデアそのものを手にはできないから、なるべく……近いものを……という……感じ……になるんですよね……多分……。
なんだかちょっと逸れたような気もしますが、だから私は周りに振り回されず、ただ自分の中の推しの解釈を突き詰め、まとめてアウトプットする「生産力のあるクールなオタク」になりたいのです。

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縦ずどーん

webの縦読みだと縦にずどーんって割るコマ割りがいまいち「効かない」んだなぁって自分の漫画(どれとは言わんが)を読み返していて思いました。
縦にずどーんっていうのはこういう……こう……これです……①です。
横にめくっていたら次のページで①の全景が見れるんですけど、縦スクロールだと、②(次のコマ)も同時に目に入ってきてしまうんですね。しかも②と同時に見える①は①の全部ではなく上部という……。
漫画って基本的に横長に割ることが多いと思うので、たまに縦長ずどーんを入れると効くんですけどね。web縦読みだと効き辛くなっちゃうんですねぇ。ふーむ。
ちなみにこれ、「縦スクロールしていかないと1P全てが見えない」場合の話なので(支部とか)、1Pが一画面に収まる場合はそこまで効力失わないんじゃないかなって思います。媒体によって変わるのはおもしろいですね。
 
「コマ割り難しい〜」みたいなのはたまに見ますけど、コマ割りってメソッドがあるしそれをいろんな人が紹介してくれているのでその辺に則ればまず間違いなんじゃないかなと思います。まぁ私も詳しくは知らないですけど(だめじゃん)。
個人的には淡々とした感じの、ある程度空白があるタイプが好きなので、自分で描くとそんな感じですね。yukmsm先生のコマ割りがめちゃめちゃ見やすくて好きです。
 
というか、メソッドがあるっていうなら「web用の」メソッドっていうのもあるんだろうなぁ。は〜奥が深いですね(?)

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そんな感じで描いてますヨ

そういえば(たまに言ってるからか)たまに聞かれるんですけど、絵描くときは線画までアナログで後はスマホアプリで仕上げてます。スキャンとか色塗りとか写植とか。
全部スマホでやってみようと思ったこともなくはないんですけど、どうしてもスマホでは線が上手く描けなかったのでアナログ線画をスキャンアプリでスキャンしてます。元々アナログの民だしね。
仕上げに使ってるのはアイビスペイントというアプリなんですけど、線画抽出と写植ができるようになった頃からがっつり使うようになったかなぁという気がします。使いこなせてはいませんが(笑)。
と、まぁなんかそんな感じで描いてますヨ(大して説明になってない)。こういうのはちゃんとメイキングとかやったらおもしろかったりするんですかね〜。でも自分に関して言うなら、絵そのものの描き方どうこうよりネタ出し云々の話の方が需要はありそうな気がしなくもない。もしくは漫画の描き方云々とか?わからんけど。
「こういう話聞きた〜い」とか「こういうのどうやってんの?」みたいなのがあったら拍手とかで投げて頂ければ何か話すかもしれないですね。どうせ上手い説明はできないと思いますけど(笑)

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後発価値

最近ふと思い立って2、3年前?の絵をツイッターに上げていたんですけど、どこからともなくふぁぼをいただいてまして。ありがとうございます〜。
それでですね、「お?もっといろいろあるけどね?見る???」みたいな気持ちになったんですけど(チョロい)、紙でしか残ってないのでアップするにはスキャンしないといけないんですよね。それが面倒くさいとかそういう話ではなく、以前アップしたときのものがそのまま残っていたらリンク貼るなりして引っ張ってくるだけなんだよなーって思ったんですよ。当時もピクシブやツイッターには上げていたわけなので。でももうその時のアカウントは消してしまったので無いんですよね。あー、なんか勿体無いことしたのかなーってちょっと思いました。
よく考えたら自分だって「なんで消したん!?!???」って人に対して思うことあるんですよね。すっごい好きで毎日見に行っていたような作品がある日突然消えていたときとか、ちょっと前が最盛期のジャンルにハマったときとか(笑)。
なんというか、そうやって残しておくことや続けることで生まれる価値っていうのもあるんでしょうね。何年か後に突然そのジャンルにハマった人が自分の絵に辿り着く可能性だってあるわけですし。マイナーだったりすると尚更「ある」ってこと自体が有り難い場合もありますからね……。わかるそれな……。
でもそういうのって、後からそうなるものだから、「今」はやっぱりわからないんですよね。「今」がどんどん流れていく現在の時流だと、「今」の一瞬で評価されないと凹んでしまうこともままあるわけで。それで凹んでやめちゃったり消しちゃったりね。
むしろこういう時代だから蓄積されているものに価値が生まれるってこともあるのかな〜。どんどん流れていくからこそ、流れた後に「流れたからもう誰も見ないし消していいか」になりがちなんだと思うんですけど、後に「今も残ってるじゃん!」って見つける人はいるはずなんですよね。せっかくならその可能性に期待したいですよね。上げる側も見る側も。
 
単純に「消さないで残しておく」ぐらいなら自分にもできそうですけどね。いや私割とホイホイ作品とかアカウントとか消すタイプなので全く説得力無いですけど……(自分の好きなようにやるのが一番ですし)。でもまぁそういう、残しておくこと・続けることそれ自体にも意味があるんだなーってことは心に留めておこうと思います……。

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